大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

徳島地方裁判所 平成3年(ワ)22号 判決 1998年2月13日

原告

勝浦良明

外二名

右三名訴訟代理人弁護士

小笠豊

被告

右代表者法務大臣

下稲葉耕吉

右指定代理人

前田幸子

外九名

主文

一  被告は、原告勝浦良明に対し、金三〇〇〇万円及び内金二七〇〇万円に対しては昭和六一年一二月二三日から、内金三〇〇万円に対しては平成三年二月五日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告勝浦良明のその余の請求を棄却する。

三  原告勝浦義二及び原告勝浦孝子の請求をいずれも棄却する。

四  訴訟費用は、これを一〇分し、その九を原告らの負担とし、その余は被告の負担とする。

五  この判決は、主文一項に限り、仮に執行することができる。

事実及び理由

第一  請求

被告は、原告良明に対し、金二億九七三〇万円、原告勝浦義二、原告勝浦孝子に対し、各金一一〇〇万円及びこれらに対する昭和五〇年一一月二八日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

本件は、原告らが、被告の設置する徳島大学医学部付属病院(以下「被告病院」という。)において、原告勝浦良明(以下「原告良明」という。)の本当の病名は治療が可能な脊髄腫瘍でありその旨の確定診断をつけて速やかに腫瘍摘出手術をする必要があったにもかかわらず、被告病院の担当医師らがこれを不治の疾病たる筋萎縮性側索硬化症(ALS又はアミトロと略称されることもある。)と誤診するなどしたことから、その手術が遅れ、原告良明に重篤な四肢麻痺の後遺障害が残ったことについて、入院中の原告良明の諸症状からして、担当医師は、脊髄腫瘍を疑ってその鑑別のための脊髄造影(以下「ミエログラフィー」という。)による検査等を実施し、あるいは、整形外科にその鑑別のための診察を依頼すべき義務があったのにこれを怠ったとして、また、退院後の症状の経過を観察し、療養を指導するなどの義務があったのにこれを怠り脊髄腫瘍に気づかなかったとして、被告に対し、診療契約上の債務不履行又は国家賠償法一条一項ないし使用者責任に基づく損害賠償を求めている事案である。

(争いのない事実)

一  当事者

原告良明は、昭和三〇年二月二四日生まれの男子であり、原告勝浦義二(以下「原告義二」という。)、同勝浦孝子(以下「原告孝子」という。)は、原告良明の両親である。

被告は、被告病院を設置し、管理している。福田信夫医師ら被告病院の担当医師らは公務員であり、かつ、被告の被用者である。

二  事実経過の概要

原告良明は、昭和五〇年九月一二日、右手・右足の脱力感及び左手のしびれ感を主訴として、被告病院第二内科(以下「第二内科」という。)を外来受診し、その際、外来診察医である沢田誠三医師(中央臨床検査部助手)から同病院整形外科の紹介を受けた。

原告良明は、昭和五〇年九月一九日、被告病院整形外科を外来受診し、野島元雄助教授(以下、証拠方法としても「野島医師」という。)の診察を受け、その際、野島医師から筋萎縮の原因を精査するために入院することを勧められた。

原告良明は、昭和五〇年九月二三日、第二内科の外来担当医によって入院を許可され、同年一〇月一七日、筋萎縮等の原因精査のため、第二内科に入院した。入院中の担当医(主治医)は昭和五〇年に医学部を卒業したばかりの福田信夫医師(以下、証拠方法としても「福田医師」という。)であったが、同医師は、被告良明の臨床症状、検査結果等をみて、その疾病は、筋萎縮性側索硬化症(以下「ALS」という。)の可能性が最も高いと判断し、その旨の診断をつけた。

福田医師は、原告良明が昭和五〇年一一月二八日に退院した際、原告孝子ら家族に対し、原告良明の病名がいまだに原因の解明がなされず治療方法もないALSである旨、今度第二内科と他の病院のいずれに通院するかを追って連絡して欲しい旨伝えた。

その後、昭和五〇年一二月一二日に原告良明が被告病院を外来受診し、近森一正医師(以下「近森医師」という。)が診察に当たり、また、同月二六日には同原告の家族のみが来院し、投薬がなされたが、それ以外には原告らの方から被告病院に対し特に連絡等はなかった。

そのころから原告良明は民間の指圧やマッサージに通うなどしていたが、昭和五四年春ころから腹部、背部に痛みが出現し、歩行に杖を必要とするようになった。昭和五四年九月二七日には、原告良明及びその家族が肢体不自由者国民年金・福祉年金受給用診断書の交付を希望して被告病院を受診し、福田医師がその診察に当たった。原告良明は、交付された右診断書の傷病名欄に目を通し、自分の本当の病名がALSであることを知った。また、昭和五四年一〇月一一日には原告良明の家族がリハビリテーションを希望して来院したので、福田医師において、被告病院理学療法部を紹介したが、原告良明はこれを受診しなかった。原告良明は、昭和五六年夏ころから歩行することが困難となった。

昭和五七年七月一日、原告良明が、家族とともに、リハビリテーションを希望して被告病院に来院したので、その診察に当たった岩城正輝医師(以下、証拠方法としても「岩城医師」という。)が国立療養所徳島病院を紹介した。原告良明は、昭和五七年七月七日、国立療養所徳島病院を受診し、以降同年八月三日までの二七日間に二回の診察と一一回のリハビリテーションを受けているが、それ以後は同病院に来院していない。

原告良明は、昭和五九年始めころ寝たきりのため床擦れが出始め、同年五月末には気胸を起こしたことから、田岡病院の整形外科に入院したところ、同病院の担当医は、ALSと症状が違っていたため、同年一二月一八日ころ、鑑別のためにミエログラフィー検査を実施し、頸髄部に腫瘍があることを発見した。原告良明は、昭和六〇年一月一六日、田岡病院から被告病院の整形外科に転院し、同月二八日、部位等を確定するためにミエログラフィー検査が実施されて脊髄腫瘍との診断を受け、同月三〇日に腫瘍の摘出手術がなされた。摘出された腫瘍は、硬膜内髄外腫瘍(神経鞘腫)であり、手術後、原告良明には、肩から下の四肢完全麻痺、膀胱直腸障害及び呼吸障害が残った。

原告義二及び同孝子は、昭和六〇年六月三日ころ、第二内科集中治療室において、福田医師に対し、責任をとって欲しい旨申し入れた。昭和六一年四月一四日、第二内科の森博愛教授、福田医師らと原告らとの間で、第二内科の責任問題についての話合いがもたれ、原告らは福田医師らに謝罪を求めた。原告らは、昭和六一年一二月二二日、森博愛教授、福田医師らとの間で、二回目の話合いをもち、慰謝料、医療費の支払等を要求したが、平行線をたどり、平成三年一月二三日、当庁に訴訟を提起した。

なお、原告良明は、昭和五四年三月に身体障害者第二種三級(痙性麻痺による右上下肢機能障害)の認定を受け、平成二年七月第一種一級(四肢体幹機能障害)に切り替えられた。

三  ALSの概念、症状及び所見等

ALSは、上位及び下位運動ニューロンを選択的かつ系統的に冒す原因不明の進行性変性疾患である。潜行性(緩徐)に発病し、経過は進行性であって次々と四肢に筋萎縮及び運動麻痺を起こし、ついには球麻痺症状を示し、多くは三年から五年で死亡する。有効な治療法はなく、予後は不良である。

病型には、上肢次いで下肢筋の萎縮と麻痺が進行し、遅れて球麻痺が現れる普通型、嚥下障害、構音障害が目立つ球麻痺型、深部反射低下を伴い下肢から発症する偽多発神経炎型などがある。

ALSは、主として中年の疾患で、おおよそ三分の二の患者は三五歳から五五歳の間に発病する。

主な症状としては、①球症状(構語障害、嚥下障害、舌の麻痺・萎縮、筋線維束性攣縮等)、②上位運動ニューロン徴候としての錐体路徴候(深部反射亢進、病的反射出現等)、③下位運動ニューロン徴候としての前角徴候(筋萎縮、筋力低下、筋線維束性攣縮等)がある。

ALSにおいては、原則として、他覚的知覚障害(触覚、痛覚、温度覚、位置覚、振動覚等の障害)、膀胱直腸障害(排尿困難、尿閉、便秘等の症状)、小脳徴候、褥瘡(床擦れ)、眼球運動障害の所見は現われない。

ALSに特異的な検査所見はないが、筋電図、筋生検が診断に有用であって、筋電図は神経原性パターンを示し、筋生検では神経原性変化を認めることが多い。

四  脊髄腫瘍の概念、症状及び所見等

脊髄腫瘍は、脊柱管内に発生した腫瘍で、腫瘍のため脊柱管狭窄を起こし、脊髄や神経根の圧迫症状が出現する。脊柱管内横断面での腫瘍の部位により、硬膜外腫瘍、硬膜内髄外腫瘍、髄内腫瘍の三つに、占拠高位により、頸髄腫瘍(更には頸髄の位置により、上部頸髄腫瘍、下部頸髄腫瘍)胸髄腫瘍、腰髄腫瘍等に、腫瘍の種別により、神経鞘腫、髄膜腫、神経膠腫、血管腫等に分類される(本件は硬膜内髄外腫瘍、頸髄腫瘍、神経鞘腫に係るものである。)。

一般に疼痛を初発徴候として発病し、一定期間後、慢性進行性の運動障害、知覚障害が出現し、最終的には四肢麻痺、膀胱直腸障害を示す疾患である。反射異常のうち、下顎反射が亢進することはない。何らかの脊椎症状の出現する頻度は七割ほどである。筋線維束性攣縮の出現頻度は多くない。

脊髄腫瘍の検査としては、脳脊髄液検査、脊椎単純エックス線写真撮影、筋電図検査、ミエログラフィー検査等がある。

脳脊髄液検査においては、脊髄圧迫症候群を高率に認める(硬膜内髄外腫瘍で約八三パーセントから九七パーセント)。脊髄圧迫症候群としては、①クエッケンステット徴候、②キサントクロミー、③脳脊髄液の自然凝固、④蛋白含量の著しい増加と細胞数非増加、⑤脳脊髄液無流出等が挙げられる。脊椎単純エックス線検査では、椎骨の種々の変化をみる。

五  原告良明と被告との診療契約

原告良明は、昭和五〇年一〇月一七日ころ、被告病院に入院するに当たり、遅くとも右入院時点において、被告との間で、同原告の訴える症状につき、現代医学の知識及び技術に基づいて、慎重に診察し、必要な諸検査を実施した上、正確に診断して適切な治療を行うことを委託し、被告はこれを受任する旨の準委任契約(診療契約)を締結した。そして、被告は、本件診療契約に基づき、原告良明に対し、退院した後においても定期的に受診するよう適切な指示をし、診断の修正等のための適切な療養指導をすべき義務を負担した。

原告良明は、前示のとおり、昭和五〇年一一月に退院した以降も被告病院に来院し診察等を受けているが、原告良明と被告病院との間には、来院の都度、その時の原告良明の主訴等に応じた前同様の診療契約が成立した。

(争点と当事者の主張)

一  被告の責任原因

被告病院の担当医師らによる診療契約上の債務不履行ないしは過失の有無

1 原告らの主張

(一) 昭和五〇年一〇月、診断の確定と治療指針のために入院した際の誤診

(1) 原告良明が、昭和五〇年一〇月一七日から同年一月一七日まで、診断の確定と治療指針の決定のため、第二内科に入院し、諸検査の結果、同内科では、脊髄腫瘍をALSと誤診した。

(2) 原告良明には、被告病院入院前より、肩から肘にかけて電気が走るような痛み、焼けるような痛みがあり、入院中も肩から肘にかけての疼痛等が続き、根性疼痛も確認されており、これは脊髄腫瘍を含めた頸椎症の典型的な症状であって、ALSにはみられない症状であるから、脊髄腫瘍を含めた頸椎症の疑いをもち、その鑑別のための詳しい検査(ミエログラフィー)を実施し、あるいは、その鑑別診断のために、頸椎症・脊髄腫瘍に詳しい整形外科へ紹介し、頸椎症・脊髄腫瘍の鑑別のための診察(共同診察)を依頼すべきところ、ミエログラフィー検査を実施せず、また、頸椎症・脊髄腫瘍との鑑別のための整形外科への診察依頼もしなかったのは重大な過失(履行不完全)である。

被告病院入院時の検査・治療方針には、頸椎症や脊髄腫瘍との鑑別の必要が挙げられている上、教授回診の際にも、頸椎症との鑑別の必要が指摘されており、さらに、頸椎症・脊髄腫瘍との鑑別診断のために整形外科へ紹介する旨の指針がたてられているのに、現実にはその後の検査・治療の過程では、筋電図や筋生検のために整形外科へ紹介され、筋電図・筋生検の検査が実施されただけで、頸椎症や脊髄腫瘍の鑑別依頼がなされなかったのは重大な過失(履行不完全)である。その詳細は以下のとおりである。

(3) 原告良明は昭和五〇年九月一二日被告病院を外来受診し、第二内科外来カルテ(乙一)には、「昭和五〇年一月ころより、右手・右足の脱力感に気付き始める。最近左手のしびれ感を訴えている。」との記載がある。しびれ感というのは感覚障害である(証人福田医師)。昭和五〇年九月一九日には整形外科を受診し、同外科においても、「知覚障害は左半身にあり」、「痛覚、鈍痛ありか?」と記載され(乙三)、「筋萎縮の原因は一寸判断しかねます。……入院して精査されることをおすすめします」と回答されている(乙一、三)。

原告良明は、昭和五〇年一〇月一七日、被告病院に入院した。

第二内科入院カルテ(乙二)の昭和五〇年一〇月二五日欄には、「高校時代(一七歳)からスリッパが脱げやすかった」「一七歳の時、握力右二〇キログラム、左三〇キログラムであった」旨の記載がある。これは脊髄腫瘍の症状のうち深部知覚障害にあたる。

本件の発症は一七歳くらいからであるが、ALSの発症時期は、二〇歳以上が99.2パーセントとなっている(乙二、証人福田医師)。

型別生存期間をみると、偽多発神経炎型23.7か月となっているが、原告良明は入院時点で既に三年経過しており、その点でも典型的ではなかった(乙二、証人福田医師)。

入院中の検査では、「左下肢と上肢しびれ感あり、知覚障害軽度プラス」旨指摘されており(乙二)、知覚障害は痛覚が低下、振動覚が陽性であることがわかる。

また、「ALSが最も考えられるが、症状が足から始まっていること、右半身に症状が強いことから、筋症各種について検討を要す」との記載がある(乙二)ところ、ALSの場合、両側性にくるのが普通であり、脊髄腫瘍・頸髄腫瘍の場合には片側だけにくるのが多いといわれている(証人福田医師)。

昭和五〇年一〇月二七日の髄液検査の結果、第二内科入院カルテ(乙二)には、「蛋白・ノンネーアペルト反応陽性軽度白濁、定量41.4ミリグラムパーデシリットル、2.3分画」「腰椎穿刺施行、蛋白がやや多いほか特別な所見なし」旨記載されているところ、右髄液検査の総蛋白量について、被告は、正常髄液の総蛋白量の正常値は一〇ないし四五ミリグラムパーデシリットルで、41.4ミリグラムパーデシリットルは異常値ではない旨主張するが、正常髄液の総蛋白量の正常値は一〇ないし四〇ミリグラムパーデシリットルであり、分画以上は病的である(乙八九、甲四七、四八、鑑定)。

なお、第二内科入院カルテ(乙二)には、「右上肢の肘部から上にかけて電気が走るような痛みがある。しびれもある」(昭和五〇年一〇月二八日欄)、「美ダリ上肢に深部から起こるような痛みがある」「筋萎縮と言っていましたが、萎縮はどこにあるんですか。どうやったらわかるんですか」(同月三一日欄)、「左上肢の神経痛様の痛み持続。左下肢にも筋繊維束痙攣があった」(同年一一月四日欄)、「左下肢に神経痛様の痛みがある。左手掌がしびれている」(同月一八日欄)、「左上肢の神経痛様痛みはやはり継続している」(同月二〇日欄)、「左上肢肘関節部の神経痛様痛み持続。左手掌のしびれ感も持続」(同月二一日欄)、「左上肢の痛み持続、左手掌のしびれ感持続」(同月二五日欄)旨の各記載がある。

(4) 被告病院では、一応ALSを疑ったが、これとの鑑別を要するものとして、頸椎症、頸髄部腫瘍等の一二の疾患が指摘され、一般検査として、検尿・検便、胸部レントゲン写真、心電図等、特殊検査として、神経学的検査、眼科学的検査、整形外科学的検査、頸部・脊柱のレントゲン検査、筋電図、筋生検等の検査計画が立てられ、検査がなされたにもかかわらず、頸椎症、頸髄部腫瘍、多発性神経炎の疑いは否定しきれなかった(乙二、証人福田医師)。

昭和五〇年一〇月二一日ころ、教授回診があり、一緒に回診した近森医師が、「発症年齢が若いということから頸椎症が一番問題だ」と指摘し、沢田医師も「発症年齢が若い、経過やや長い」と指摘し、第二内科入院カルテ(乙二)の同月三〇日欄には、「頸椎症・頸髄腫瘍をどう否定するか?」と記載され、この時点までにALSと鑑別を要する疾患として、頸椎症と頸髄腫瘍の二つが残っていた(証人福田医師)。

さらに、第二内科入院カルテの昭和五〇年一一月四日ころのサマリー(要約)には、「ALSにしてはややあわない」と記載されている。

そして、同日に筋電図をとり、同月六日に頸椎の四方向のレントゲン撮影をし、同月一〇日に筋生検を施行し、同月一四日ないし一七日ころ、整形外科の野島助教授から、「神経原生筋萎縮と考えられます」という返事をもらったが、この神経原生筋萎縮というのは、頸髄腫瘍とALSの両方を含んだ診断である(証人福田医師、同野島医師)。

第二内科入院カルテ(乙二)をみると、昭和五〇年一一月一三日の組織学的診断では、「原因不明の軽度筋萎縮」と診断され、同月一八日の一週間分の要約では、「(1)運動ニューロン疾患にて精査加療中の患者。(2)頸部脊柱レントゲン写真正常、筋電図神経原生パターン、筋生検は未判明、(3)一応検査が終わったので、退院としたい」とあり、脊髄腫瘍の疑いは完全に否定されないまま。ALSと確定診断されて退院となった。

(5) 昭和五〇年前後のマイオジール(油性造影剤)によるミエログラフィー検査は、撮影後に吸収されない造影剤を除去する操作が必要で、副作用や合併症の可能性をもつものであるが、ALSか脊髄腫瘍、又は他の脊髄疾患を鑑別するためには、検査上これらの欠点を念頭に入れても、ミエログラフィー検査を実施すべきであった。

入院当初、ALSが最も疑わしいと判断しながらも、脊髄腫瘍や頸椎症、あるいは神経性進行性筋萎縮症、痙性脊髄麻痺等を考慮し検索をすすめていった診療方針は、適切なものであったが、①上肢への神経痛様疼痛があったこと、②嚥下障害、構音障害等の球麻痺症状がなかったこと、③痛覚障害、振動覚障害といったALSでは出現しにくい症状が存在したこと、④髄液検査では蛋白値の軽度上昇がみられたことなどから、ALS以外に鑑別すべき他の疾患の可能性をも考慮して、さらに徹底した検査を行うべきであった(鑑定、鑑定証人阿部弘)。

被告は、ミエログラフィーは副作用の危険性が高く、手術を前提として初めて実施するもので、鑑別診断のためには実施しない旨主張するが、例えば、「現在のところ、マイオジールによるミエログラフィーによる検査法が脊髄腫瘍の診断に欠くべからざるといえる」(甲一六)、「脊髄腫瘍の高位診断、髄内・髄外の区別、他疾患との鑑別のためにミエログラフィーは極めて有効な補助診断法である」(甲二〇)、「類似疾患との鑑別、場合によってはミエログラフィーなどを参考にする必要がある」(乙四〇)、「脊髄症状を呈するほどの脊髄腫瘍では、ミエログラフィーで陽性は必発であり、確定診断、高位、横断位、占在側の決め手としての本検査の価値は大きい」(乙四一)というように、昭和五〇年当時の多くの文献にも鑑別診断のためにミエログラフィー検査を実施すべきであると記されている。

このように、ミエログラフィー検査は、決して手術を前提とする場合だけでなく、病気の診断を的確につけたい場合の診断のために使用されていた検査であり、現実に鑑定証人阿部弘は二〇パーセント程度は手術を前提としない診断のために実施しているのであり、本件では鑑別すべき疾患の重大性を考えれば、たとえ副作用の危険性があっても、脊髄腫瘍との鑑別のためにミエログラフィー検査を実施すべきであった。

被告病院は、当該地方における最高水準の医療が期待・要求される大学病院であるところ、原告良明の入院中(四三日間)、様々な検査の結果、頸椎症や脊髄腫瘍の疑いを否定しきれない(むしろその疑いが濃い)にもかかわらず、ALSと頸椎症や脊髄腫瘍を鑑別するためのミエログラフィー検査を最後まで実施しなかったことは明らかに重大な過失(履行不完全)である。

(二) 退院時の経過観察義務違反、療養指導義務違反

(1) 昭和五〇年一一月二八日の退院に際し、福田医師は、原告良明には病名を知らせず、原告義二と同孝子に対してのみ、病名がALSであるということと、五年くらいしか生きられないであろうということを説明したが、他の疾患の可能性もあるといった説明は全くしなかった。

(2) 第二内科では、一応ALSと診断をつけたわけであるが、予後の判らない病気を抱えた患者であり、また、脊髄腫瘍等治療可能な他の疾患の可能性も否定できなかったわけであるから、その場合の結果の重大性も考慮に入れ、経過観察が大切であることを説明した上、二ないし三か月くらいの間隔で定期的に受診するよう指示・指導すべきであった(鑑定、鑑定証人阿部弘)。

(3) 第二内科は、原告らに対し、仮に余所の病院に移るのであれば、退院時に紹介状を渡すべきであり、「第二内科に通院するか、他の病院にするのか決めて欲しい」といった話は退院時の通常の療養指導の在り方と異なるし、適切な療養指導がなされたとはいえず、重大な病気を抱え、予後の判らない患者に対する療養指導としては極めて不親切で不適切な対応であった(医師法二三条)。

その後、昭和五〇年一二月一二日に受診し、引き続き被告病院で受診することになったにもかかわらず(他の病院への紹介状は渡していない)、昭和五四年まで一度も受診していないことについての対応も不適切である。定期的に受診が必要であるとの説明が十分適切に行われなかったことから、その後通院しなくなったものと考えられ、仮にそうでないなら、余所の病院に移ってもいないはずであるから(紹介状も渡していない)、難病と診断した被告病院としては、その後の経過を問い合わせたりする程度の配慮は当然行うべきであった。

(4) 「治療方法がない。原因も判らない、あと五年くらいしか生きられないだろう」という説明が被告病院からあったため、原告良明は、大学をやめ、自宅療養をすることになり、また、治療法のない病気なので通院する意味がないと考えたことや、頻繁に外来受診をすることによって原告良明に本当の病名が判ってもいけないといった両親の配慮などから、退院後はほとんど外来受診をしなかった結果、診断の修正の機会を得られなかった。これは、被告病院の主治医の福田医師らの退院時の説明、療養指導の不適切さによるものであるから、退院に当たっても療養指導義務違反、その後の経過観察義務違反が成立する。

(三) 昭和五四年に受診した時の義務違反

原告良明が被告病院を二度(昭和五四年九月二七日、同年一〇月一一日)受診した時点で、筋力低下等の症状は進行していたが、ALSで出現しやすい球麻痺症状が現われていないので、ALSにしては経過が異なることに留意し、他の疾患も疑って検索をしてみるべきであり、例えば、そのころはコンピューター断層撮影法(以下「CT」という。)による検査が普及してきた時期であって、造影剤を注入したエンハンスCT撮影等を実施すべきであった(鑑定、鑑定証人阿部弘)。

被告は、昭和五四年ころにはエンハンスCTがいまだ普及していなかったと主張するが、例えば、学生向けの教科書である甲五一の医学文献の序文には、CTは昭和四八年に導入され、昭和五一年には我が国においても本格的に使用されはじめ、昭和五四年には全国に普及している旨記されている。

したがって、被告病院が、昭和五四年ころ、原告良明の症状がALSにしては典型的な経過と異なることに疑問をもち、造影CT検査や他の検査を再度試みなかったことは明らかに重大な過失(履行不完全)である。原告良明は、昭和五四年ころにはまだ歩行が可能であったので、そのころに脊髄腫瘍を発見し手術をしていれば、後遺障害もほとんど残らなかったはずである。

(四) 昭和五七年に受診した時の義務違反

また、原告良明は、既に歩けなくなっていた昭和五七年夏ころにも、第二内科で診察を受け、リハビリのために国立の療養所を紹介してもらっているが、ALSと診断して七年が経過していたにもかかわらず、球麻痺症状も出現していないことや、昭和五五年ころからALSでは出現しにくい膀胱直腸障害も現われていた(乙五)のであるから、ALSの診断名に疑問をもち、他の疾患との鑑別に努めるべきであった。

昭和五五、五六年ころには、マイオジールに代わる安全で副作用の少ない水溶性造影剤が使用され始めていたのであるから、新しい造影剤によるミエログラフィー検査を行うべきであった(鑑定)。

このように、被告病院は、他の疾患の可能性を疑って、診断の見直しや新たな検査の実施を怠ったことは過失(履行不完全)を構成する。

2 被告の主張

(一) 昭和五〇年一〇月から一一月の入院中の誤診の点について

昭和五〇年一一月当時において被告病院の医師が原告良明の症状をALSと診断したことは、当時の臨床医学の実践における医療水準に照らして適正なものであって、被告に債務不履行はなく、また、右医師に過失はない。

(1) 昭和五〇年当時、原告良明の症状をALSと診断した根拠は以下のとおりである。

① 発病が緩徐で、かつ、進行性の遠位筋に強い筋萎縮を認めた。

② 上位運動ニューロン徴候(錐体路徴候)の存在、すなわち、深部反射亢進、病的反射出現を認め、また、入院中期ころから下顎反射亢進を認めた。

③ 下位運動ニューロン徴候(前角徴候)の存在、すなわち、筋萎縮、筋線維束性攣縮、筋力低下を認めた。

④ 有意な他覚的知覚障害を認めなかった(ごく一部に痛覚低下傾向と振動覚低下を疑わせる所見を認めたが、有意と判定できるものではなかった。)。

⑤ 膀胱直腸障害がなかった。

⑥ 頸椎症状がなかった。

⑦ 頸椎エックス線写真(四方向)に何ら異常が認められなかった。

⑧ 脳脊髄液検査において、クエッケンステット徴候及びキサントクロミーとも陰性で、蛋白含量は正常上界ないし軽度増加のみであり、また、脳脊髄液でも自然凝固、無流出等の所見は認められなかった。

⑨ 整形外科外来を二度受診したが、整形外科的疾患を示唆されなかった。

また、昭和五〇年当時、原告良明の症状を脊髄腫瘍と診断し得なかった理由は以下のとおりである。

① 脊髄腫瘍においては、脳脊髄液に、クエッケンステット徴候、キサントクロミー、脳脊髄液の自然凝固、蛋白含量の著しい増加と細胞数非増加、脳脊髄液の無流出等の所見を高率に認めるが、本例では認めなかった。

② 頸髄腫瘍では、頸椎部に、棘突起部叩打痛、可動痛、可動制限等の脊椎症状を高率に認めるが、本例では認めなかった。

③ 頸髄腫瘍では、頸椎部の単純エックス線写真異常を高率(六〇パーセントから七〇パーセント)に認めるが、本例では四方向エックス線写真に全く異常を認めなかった(整形外科受診成績)。

④ 頸髄腫瘍では、他覚的知覚障害をほぼ全例に認めるが、本例では有意の知覚障害を認めなかった。

(2) 原告らは、担当医師がミエログラフィー検査を実施しなかったことをもって、被告の債務不履行ないし担当医師の重大な過失であると主張するが、以下に述べるとおり右主張は理由がない。

Ⅰ 昭和五〇年当時のミエログラフィー検査は、整形外科的疾患の疑いが極めて強い例にのみ、副作用ないし合併症との利害損失を判断した上で実施するか否かを決めるべき検査法であり、安易に実施すべき検査法ではなく、手術を前提として万全の準備下に行われるべきであるというのが一般的な考え方であった。すなわち、マイオジールを用いるミエログラフィー検査は、死亡例を含む重大な副作用を起こす可能性があり、後期障害には、油性肉芽腫発生による下肢麻痺や癒着性くも膜炎等もしばしば認めるため、重要な検査法ではあるが、安易に行うべきではないとする意見が多くの研究者により主張され、昭和五〇年当時におけるミエログラフィー、特にマイオジールを造影剤として用いるミエログラフィーによる診断には腫瘍による圧迫があるにもかかわらずミエログラフィー所見が正常な場合があるなど明らかな限界があったため、ミエログラフィー検査はあくまで補助診断法の一つにすぎず、その所見に絶対的信頼を置くことができないとされていた。

Ⅱ 頸髄部ミエログラフィーには、右のような一般的な副作用、問題点、限界等に加えて、以下のような問題点がある。すなわち、頸髄疾患を対象としたミエログラフィー検査の際には、大量(九ミリリットル以上)のマイオジールが必要であり、このような場合には実施後に造影剤を除去しなければならず、患者に著しい苦痛を与える。また、マイオジールが頭蓋腔内に侵入する危険性が高いため、脊髄の他部位を対象としたミエログラフィー検査に比べ副作用を起こす危険性が高い。しかも、上部頸髄腫瘍では閉塞像が判然としない例が多く、その読影も困難で、数回にわたり脊髄造影を行って初めて診断し得る場合もある。さらに、頸髄腫瘍では、ミエログラフィー施行後にしばしば症状の急速な悪化を起こす場合がある。

Ⅲ 本例にミエログラフィー検査を行わなかった理由は次のとおりである。

① 脊髄腫瘍を考えさせる他覚的診察所見及び検査所見をほとんど認めなかったこと、すなわち、本例の当時の症状は、脊髄腫瘍よりもALSの蓋然性が極めて高かった。

② 整形外科を二回受診し、整形外科的疾患の可能性を指摘されなかった。なお、ミエログラフィー検査は通常整形外科医が実施するため、その実施の判断は、患者の症状、診察及び検査所見を総合評価して整形外科医が下すのが常である。

整形外科的診察所見、第二内科における診察・検査所見、整形外科で実施した筋電図、筋生検及び四方向頸椎エックス線写真等を総合評価し、その時点においては頸髄腫瘍を含む整形外科的疾患の可能性が考えられず、マイオジールを造影剤として用いるミエログラフィー等の患者に強い苦痛を与える侵襲的検査の必要がないと判断した。

③ 当時、ミエログラフィー用の造影剤としては、副作用の強い油性造影剤のマイオジールが用いられており(昭和五六年販売中止)、死亡例、重篤な合併症併発例、長期に及ぶ後遺症残存例等の報告が多く、手術を前提として実施する検査法であると考えられており、安易な実施は行わないよう指摘されていた。

(3) 原告らは、第二内科においては、脊椎症、脊髄腫瘍との鑑別のために整形外科へ診察を依頼すべきであったのにこれをしなかったことなどをもって被告の債務不履行ないし第二内科医師の重大な過失である旨主張するが、この点については以下のとおり理由がない。

Ⅰ 第二内科外来初診時(沢田誠三医師)は、昭和五〇年九月一二日、原告良明の疾病について、整形外科的疾患の可能性をも考慮し、正面及び側面頸椎エックス線写真を撮影の上、これを原告良明に持参させて整形外科外来に紹介した。

第二内科では、昭和五〇年一一月四日、頸椎エックス線写真の再読影と筋電図、筋生検を含めて、再度、原告良明を整形外科外来に紹介し、整形外科の診断を求めた。その際、担当医が院内紹介状に特に筋電図、筋生検の実施を記入したのは、一般にALSに特異的な検査(検査所見)はないとされながらも筋電図、筋生検はALSの診断上大切であると考えたためである。頸椎エックス線読影についての教示を希望したのは、頸椎に異常をきたす整形外科的諸疾患(頸椎症、頸髄腫瘍を含む。)についての教示を受けるためである。

このように、第二内科では、二回にわたって、整形外科的疾患の有無について整形外科医師の判断を仰ぐために、原告良明を整形外科に紹介した。

Ⅱ 一般に、他科に診察依頼を行うことは、その科の専門領域に属する疾患の有無についての判断を仰ぐためであって、個々の疾患名を挙げて依頼するわけではない。例えば、発熱患者の診察依頼を外科から内科に行う場合、具体的に発熱を起こす疾患名を挙げて診察依頼をすることはない。整形外科領域の疾患についての知識及び経験を有するのは整形外科医であり、内科から整形外科に診察、検査の依頼を行うことは、頸椎症、脊髄腫瘍を含む整形外科的疾患についての診断及び鑑別診断についての判断を仰ぐことを目的としている。ことに、本件においては、第二内科側において、頸椎エックス線写真を撮影の上、原告良明をしてそれを整形外科外来受診時に持参させており、頸椎症、脊髄腫瘍等の頸椎及び頸髄部疾患を含む整形外科的疾患についての診断を仰いだのである。

Ⅲ 原告らの主張するところの共同診療については、共同診療を行うかどうかは、紹介された科(本件の場合には整形外科)が患者を診察し、自己の科が関与すべき疾患ないしその疑いがあると判断した際に、共同診療を行いたい旨を紹介した科(本件の場合には第二内科)に申し出るのが通例である。被告病院においても、入院例の共同診療実施については、紹介された科(整形外科)が専門的立場からその必要性を認めた場合に、紹介した科(第二内科)に共同診療を実施したい旨の返事をするという手順をとっている。本件については、整形外科外来に、近接期間内に二回紹介しており(九月一九日、一一月四日)、いずれも同じ整形外科医(野島医師)が対応し、第一回整形外科受診時の勧告を受けて第二内科に入院したものであり、当時の症状、所見から整形外科的疾患が疑われた場合には、何らかの指示、助言、勧告があるべきものであるが、整形外科では、整形外科的立場からの病歴検討、整形外科的診察、頸椎四方向エックス線写真、筋電図、筋生検所見等の検討結果にかんがみ、共同診療についての提案は特にしなかったのである。

福田信夫医師は、当時、野島元雄助教授のもとに赴き、検査結果の評価についての意見を徴しているが、その際にもミエログラフィー検査の実施ないしは共同診療についての提案は整形外科側からなされていない。これは、当時の原告良明の症状からは、ミエログラフィー等の整形外科的特殊検査を実施する必要がなく、脊髄腫瘍・頸椎症を含む整形外科的疾患を考える必要がないとの整形外科的判断に基づくものである。

なお、本件においては、二回整形外科外来に紹介し、整形外科的診察及び検査を受けたのであるから、実質的には共同診療が行われたともいい得る。

(4) 原告らは、第二内科入院カルテに「脊髄腫瘍をどう否定するか?」などと記載されているので、脊髄腫瘍等の疑いを否定できなかったのであるから、より詳しい正確な検査を実施すべきであった旨主張するが、このカルテの記載は原告らの主張とは逆に、担当医がALSの可能性が最も高いと考えながらも、ALSとの鑑別が必要な諸疾患についても十分に考慮し、脊髄腫瘍との鑑別にも心を配っていたことを示すものであり、むしろ、担当医の真摯な診療態度の現れである。

(二) 退院後の経過観察義務違反及び療養指導義務違反の点について

(1) 原告らは、ALSとの診断をした場合であっても、経過観察のために時々受診するよう指示するなどすべきであったのに、医師がALSと説明したため、定期的な検査を受けなかったものであって、担当医師には指示、療養指導の点に誤りがあった旨主張するが、次のとおりその主張は理由がない。

主治医の福田医師は、鳥巣隆資病棟医長とともに、原告良明の退院に際して、同原告の両親である原告義二及び同孝子に対し、「諸検査の結果、筋萎縮性側索硬化症という病気が最も考えられる。この病気は難病に指定されており、筋萎縮が次第に進行し、四、五年の間に死亡することが多いが、一〇年以上の長期生存例もある。現在のところ有効な治療は見つかっていない。しかし、若いことでもあるし、今後、外来に通院しながら、経過を見るとともに、リハビリテーションを受けることが必要である。第二内科に通院するのか、近くの総合病院に通院するかを決めて、追って私に連絡して欲しい。近医に通院する場合には紹介状を書く。」旨説明し、経過観察を行うよう指導した。退院時のカルテには、「第二内科に通院する場合には近森医師(第二内科講師)にお願いし、徳島市民病院にお願いする場合には先川内科部長にコンサルト(相談)し、説明しておかなければならない。」との趣旨の記載がされている。

このように、福田医師は、原告良明の疾病をALSと断定したわけではなく、ALSの可能性が最も高い旨を告げたものである。原告らは、福田医師の指示、助言に従わず、正規のリハビリテーション及び医師による経過観察を全く受けなかったものであって、福田医師には指示・療養指導の誤りはない。原告らは、原告良明が定期的な診察を受けなかったのは、医師がALSと断定したためであるというのであるから、原告らの主張は、指示・療養指導の誤りをいうものの、結局それは、医師の誤診を理由とするものと理解されるところ、この点については、前項(一)のとおり、被告に債務不履行はなく、担当医師に過失はない。

(2) 原告らは、昭和五四年九月二七日に第二内科で福田医師の診察を受けたときに、ALSにしてはその後の経過が違うことに気づくべきであったのに、同医師は特別何の指示等もしなかった旨主張するが、次のとおりその主張は理由がない。

Ⅰ 昭和五四年九月二七日当時の原告良明の症状(訴え)及び診察所見については、何らALSと矛盾するものではなく、脊髄腫瘍と診断すべき所見は認められなかったのであるから、ALSでないことに気づかなかったとしても責められるべきではない。

Ⅱ 福田医師は、右同日に原告良明を診察した際、昭和五〇年の退院時に、経過観察とリハビリテーションのための通院を指示したにもかかわらず、同原告がこの指示、助言に従わず、正規のリハビリテーション及び医師による経過観察を全く受けていないことを知り、被告病院理学療法部において整形外科医指導下のリハビリテーション及び定期的経過観察を受けるよう指導した。

右指導により、昭和五四年一〇月一一日、原告良明の家族がリハビリテーションを希望して来院してきたので、福田医師は、右理学療法部あてに紹介状を書き、これを来院した原告良明の家族に手渡した。医療には患者の協力が欠かせないものであり、患者側にとっても自らの健康を守るための努力が要請されることはいうまでもないところであるが、その後、原告良明は右理学療法部を全く訪れておらず、昭和五七年には国立療養所徳島病院においても入院を勧められているが、自己の都合により入院せず、外来通院も昭和五七年七月七日から同年八月三日までの一か月足らずの通院で中止し、定期的観察を受けなかった。

(3) 原告らは、昭和五七年七月一日に第二内科で診察を受けた際には、原告良明に膀胱直腸障害が出ており、典型的な脊髄腫瘍の症状を示していたから、再度精査して脊髄腫瘍であることに気づくべきであった旨主張するが、直腸障害については、昭和五七年七月一日の第二内科外来カルテ(乙四)には、「便通は一日一回、便性状は正常」と記載されており、直腸障害は出現していなかったものと考えられる。また、膀胱障害については、来院時、一般患者と同じように尿検査が行われており、尿外観は黄色透明と記載され、蛋白尿、潜血等も認められておらず、原告良明からは膀胱直腸障害に関する症状も全く訴えられていないのであるから、当時典型的な脊髄腫瘍の症状を示していたとの原告らの主張は誤りである。確かに、昭和六〇年の整形外科入院カルテ(乙五)には、原告良明本人の訴えとして、「昭和五五年ころから、尿閉が年二回程度あった」旨の記載があるが、右第二内科外来カルテ及び国立療養所徳島病院外来診療カルテ(甲二七)には、その旨の記載が全くなく、昭和六〇年の整形外科入院カルテに記載された原告良明の訴えの正確性については、疑問がある。また、原告良明の訴えによると、知覚障害はないとのことであるから、原告らの主張するような典型的な脊髄腫瘍の自覚症状を示していなかったのであって、担当医師が行った本件問診以上に、更に検査をすべき義務はない。

二  因果関係の有無

被告の債務不履行ないし担当医師の過失と損害の発生との間の因果関係

1 原告らの主張

(一) 原告良明の真実の疾患は脊髄腫瘍(神経鞘腫、硬膜内髄外腫瘍)であったところ、昭和五〇年当時でも脊髄腫瘍の診断がつけば、腫瘍の摘出手術は十分可能であり、腫瘍の摘出手術をしていれば、ほぼ完全な回復を期待できた。すなわち、原告良明が被告病院に入院して検査を受けた昭和五〇年一一月ころには、左手と右足に多少のしびれがあり、右足を引きずって歩く程度の症状であったところ、硬膜内髄外腫瘍、神経鞘腫は、完全摘出の容易な予後の良い腫瘍であり(甲一九、二三、二五、三六、三七、三八、鑑定、証人阿部)、また、昭和六〇年一月の手術の際には、周囲の組織との癒着はあったが、縦五センチメートル、幅2.5センチメートル、厚さ一センチメートル、重さ一三グラムの大きな腫瘍が「容易に剥離でき、ほとんど一塊として」きれいに摘出された(乙五、鑑定証人阿部弘)ことに照らし、昭和五〇年ころであれば、腫瘍も小さく癒着も少なかったと考えられるので、被告病院整形外科において十分に全部の摘出が可能であり、さらに、多少のしびれが残るくらいでほとんど何の後遺障害もなく回復したと考えられる(鑑定、鑑定証人阿部弘)。

ところが、第二内科では、ALSと誤診し、ALSはその原因も分からず治療方法もないということで、その後昭和六〇年までの一〇年間、脊髄腫瘍の摘出手術を実施する機会を失わせたものであるから、被告の過失(履行不完全)と原告の現在の後遺障害との間には相当因果関係がある。

(二) 脊髄腫瘍は、麻痺が出てきて歩けなくなっても、近接した時期に手術をすれば、回復可能であり、したがって、昭和五六年夏ころより原告良明が歩けなくなったころに近接した時期までの間に、脊髄腫瘍の診断をつけ、腫瘍を摘出する手術を施行していれば、完全な回復を期待できたところ、原告良明の腫瘍摘出手術を施行したのが、歩行不能になってから三年半も経過した昭和六〇年一月であったため、脊髄腫瘍を摘出したにもかかわらず、既に神経が不可逆的な損傷を受けて回復できなかったものであるから、被告の過失(履行不完全)と原告良明の現在の重度の後遺障害との間には相当因果関係がある。

2 被告の主張

原告良明の罹患した頸髄腫瘍についての我が国における摘出手術の成績をみると、軽快しないものが三〇パーセントないしそれ以上で、死亡例も少なからず報告されており、仮に頸髄腫瘍の診断がついて、その摘出手術が施行されていたとしても、必ずしも軽快したとはいえないのであって、被告の債務不履行ないし担当医師の過失と原告良明の後遺障害との間には相当因果関係がない。

三  損害

1 原告らの主張

(一) 逸失利益 一億三〇〇〇万円

原告良明は、昭和五〇年一一月の退院当時二〇歳の大学三年生で、ALSと診断されて以後大学を中途退学し、自宅療養を続けたが、昭和五六年から歩行困難となり、現在は完全な四肢麻痺で、会話も不自由であり、労働能力の一〇〇パーセントを喪失した。二二年間の休業損害と将来の逸失利益は合計一億三〇〇〇万円を下るものではない。

(二) 介護費用 一億円

原告良明は昭和五六年ころから歩行不能となり、以後母親である原告孝子が、あるいは家政婦を雇って原告良明の介護を続けており、将来的にも原告良明の生存中は介護が必要であって、その介護費用としては、一億円を下るものではない。

(三) 慰謝料

原告良明につき三〇〇〇万円、同義二、同孝子につき各一〇〇〇万円が相当である。

(四) 入院雑費 一五〇〇万円

田岡病院での昭和五九年五月から同六〇年一月までの八月間、被告病院での昭和六〇年一月一六日からの六年間の入院雑費は、一日一三〇〇円で計算すると三一五万九〇〇〇円となる。

将来的にも入院生活が必要となるので、余命を四一年、一日一五〇〇円を基準に、新ホフマン式計算法で中間利息を控除して計算すると、将来の入院雑費は一二〇二万八五七五円となり、合計額は一五〇〇万円を下らない。

(五) 医療費 二三〇万円

原告良明は、昭和六〇年一月から六年間で、被告病院に入院中、治療費として毎月三万二〇〇〇円を負担したので、合計は右金額を下らない。

(六) 弁護士費用

原告良明につき二〇〇〇万円、同義二、同孝子につき各一〇〇万円が相当である。

2 被告の主張

原告義二及び同孝子の慰謝料を損害に掲げているが、不法行為に基づく損害賠償請求については格別、債務不履行に係るそれについては、診療契約の当事者は、被告と原告良明であって、原告義二及び同孝子は、右契約の当事者でないのであるから、右診療契約上の右診療契約上の債務の不履行により、右原告両名が固有の慰謝料請求権を取得するいわれはない。また、弁護士費用の請求も失当である。

四  国家賠償法の適用の可否

1 原告らの主張

福田医師ほか被告病院担当医師らの各所為は、不法行為に該当するところ、右担当医師は、公務員であり、被告は、国家賠償法一条一項による責任も負担する。

2 被告の主張

原告らは国家賠償法一条一項の適用を主張するが、医師の診療行為は、公権力の行使に当たらない。

五  消滅時効の成否

1 被告の主張

(一) 債務不履行の消滅時効

(1) 仮に、被告に債務不履行があったとしても、原告らは、債務不履行により直ちに損害賠償請求権を取得してこれを行使し得たものであるから、①昭和五〇年入院時の誤診に係る損害賠償請求権は、退院時から一〇年を経過した昭和六〇年一一月二八日をもって時効により消滅しており、②昭和五四年九月二七日の受診時の債務不履行の主張に係る損害賠償請求権は、その時から一〇年を経過した平成元年九月二七日をもって時効により消滅しているので、被告はそれぞれこれを援用する旨の意思表示をする。

(2) 消滅時効の起算点である「権利を行使し得る時」(民法一六六条一項)とは、権利を行使することについて法律上の障害がなくなった時をいい、事実上の障害は時効の進行を止めず、権利者が権利を行使し得る時期になったことを知らなくとも時効は進行すると解されるところ、医療過誤訴訟において問題とされるところの本来の債務は、抽象的概括的な診療債務ではなく、個々の具体的状態に対応する具体的個別的診療債務であって、その具体的個別的診療債務は、その不履行により、損害賠償債務に転化するのであるが、(つまり、個別具体的診療債務の不履行に基づく損害賠償債務は、本来の債務である個別具体的診療債務が内容を変更したに止まり、本来の債務と同一性を有する。)、本来の債務である個別具体的診療債務の履行を請求し得る時とは、抽象的概括的診療債務が発生した時ではなく、個別具体的診療債務が不履行となった時と一致するというべきである。そして、右損害賠償請求権は、いわゆる期限の定めのない債務であって、法律上の障害がない限り、いつでもこれを行使し得るのであるから、右損害賠償請求権の消滅時効の起算点は、本来の債務である個別具体的診療債務の履行を請求し得る時、すなわち、右の個別具体的診療債務が損害賠償債務に変わった時(不履行の時)であり、権利者において権利発生の事実を確知することを要さず、損害額が確定している必要もないと解すべきである。

(二) 不法行為の消滅時効

仮に、被告側の担当医師に過失があったとしても、原告らは遅くとも昭和六〇年六月三日には、本件損害及び加害者を知ったものと認められるので、原告らの主張する各過失に係る損害賠償請求権は、いずれもその時から三年を経過した昭和六三年六月三日をもって時効により消滅しているので、被告はこれを援用する旨の意思表示をする。

2 原告らの主張

ALSではなく脊髄腫瘍であることが判ったのは、昭和六〇年一月三〇日に被告病院で手術をした後であり、さらに、原告良明の脊髄腫瘍が早期であれば手術により治療可能な硬膜内髄外腫瘍と判ったのは、提訴可能な事案かどうかを検討するための証拠保全をする際に、原告義二と同孝子が被告病院の医師に脊髄腫瘍の種類を問いただした時であって(甲四)、これは平成二年の九月か一〇月ころのことである。そして、平成二年一一月九日に証拠保全の申立てをし、同月二四日にこれを実施し、手術記録等を検討した結果、原告良明の脊髄腫瘍が硬膜内髄外腫瘍の神経鞘腫で、早期に手術していれば治療可能であったことが判ったものである。つまり、損害及び加害者を知ったのは、原告代理人が原告らから相談を受け、証拠保全の手続をとった平成二年九月から一一月末ころにかけてであり、不法行為や債務不履行の消滅時効が完成していないことは明らかである。

第三  争点に対する判断

一  争点四(国家賠償法適用の可否)について

医師が患者に施す治療行為は、公権力の行使に該当しないことは明らかであり、本件に国家賠償法が適用されるとする原告の主張は失当である。

二  争点五(消滅時効の成否)について

1  診療契約上の債務不履行に基づく損害賠償請求権の消滅時効について

民法一六六条一項にいう「権利を行使することを得る時」とは、単にその権利につき法律上の障害がないというだけではなく、さらに、権利の性質上、その権利行使を現実に期待できるものであることをも必要というべきであるが、権利の発生自体を認識していないといった本人の主観的な事情は、時効の進行を妨げないと解するのが相当である。

本件のような診療契約については、例えば、債務の不履行時に後発損害の予見が不可能な後遺障害発生の事例とは異なり、診療契約上の債務の不履行があった時点において、頸髄腫瘍による四肢麻痺等に伴う積極・消極損害の予見が可能なのであるから、債務不履行があった時点より、その不履行の都度、各損害賠償請求権の消滅時効が進行するとみるべきである。

そうすると、消滅時効が完成していないのは、原告らが訴訟を提起したのは平成三年一月二三日であるから、原告らの主張に係る、昭和五〇年入院当時のミエログラフィー検査の不実施に伴う病名相異、同年退院時の療養指導・経過観察義務違反、昭和五四年受診当時の脊髄CT、ミエログラフィー等の検査義務違反、昭和五七年受診当時のミエログラフィー等の検査義務違反による各債務不履行に基づく損害賠償請求権のうち、その不履行より一〇年を経過していない右昭和五七年受診当時の損害賠償請求権のみということになる。

2  不法行為に基づく損害賠償請求権の短期消滅時効について

証拠(甲四、三四、三五、四三、乙五、原告良明、同孝子)及び争いのない事実によれば、原告良明が頸髄腫瘍の摘出手術を受けたころ以降の事実経過は次のとおりと認められる。

すなわち、原告良明は、昭和五九年五月末に気胸を起こしたことから、田岡病院の整形外科に入院したところ、同病院の担当医は、ALSと症状が違っていたため、同年一二月一八日ころ、鑑別のためにミエログラフィー検査を実施し、頸髄に腫瘍があることを発見し、原告良明もそのころ自分の本当の病名が脊髄腫瘍であることを知った。原告良明は、昭和六〇年一月一六日、田岡病院から被告病院の整形外科に転院し、同月二八日、部位等を確定するためにミエログラフィー検査が実施されて脊髄腫瘍との診断を受け、同月三〇日に腫瘍の摘出手術がなされた。手術の際には、周囲の組織との癒着はあったが、縦五センチメートル、幅2.5センチメートル、厚さ一センチメートル、重さ一三グラムの腫瘍がほとんど一塊として摘出された。摘出された腫瘍は、硬膜内髄外腫瘍(神経鞘腫)であったが、既に神経機能が不可逆的な損傷を受けていたため、原告良明は、肩から下の四肢完全麻痺、膀胱直腸障害及び呼吸障害が残った。原告義二及び同孝子は、昭和六〇年六月三日ころ、第二内科集中治療室において、福田医師に対し、病名相異の責任をとって欲しい旨申し入れるなど、早期に話合いの場を設けるよう希望していたが、第二内科側は、原告良明のリハビリヘの影響を懸念してこれを延期していた。原告良明は、昭和六〇年九月、第二内科との話合いの遅れなどからストレスがたまり潰瘍性胃穿孔による腹膜炎を起こし、緊急に開腹手術が行われたため、話合いは同良明が回復するまで更に延期された。昭和六一年四月一四日、第二内科の森博愛教授、福田医師らと原告らとの間で、第二内科の責任問題についての話合いがもたれ、原告らは福田医師らに対し、病名相異とミエログラフィー検査の不実施についての説明と謝罪を求めたが、第二内科側は、ミエログラフィーは障害が残るなどかなり危険な検査であったので昭和五〇年当時は手術を前提としてのみ実施していた旨説明するなどして自己の責任を認めなかった。昭和六一年一二月二二日、原告らは、森博愛教授、福田医師らとの間で、二回目の話合いをもち、慰謝料、介護料、医療費の支払等を要求したが、前回同様、話合いは物別れに終わった。原告らは、このまま話合いを続けても平行線をたどることが明らかであったため、飛び込みで法律事務所を訪問して弁護士に相談したが、良い返事をもらえず半ばあきらめていたところ、ようやく他の紹介で現在の代理人と巡り合い、平成二年一一月九日、訴訟の提起が可能な事案かどうかを検討するために証拠保全の申立てをし、同月二四日にこれを実施し、右保全記録を検討した結果、原告良明の頸髄腫瘍が硬膜内髄外腫瘍の神経鞘腫であることを知り、平成三年一月二三日、当庁に訴訟を提起した。

ところで、民法七二四条前段にいう「損害を知った時」とは、単に結果としての損害の発生にとどまらず、加害行為の違法性及び加害行為と損害との間の相当因果関係をも知ることを要するが、右違法の認識は、一般人なら加害行為を違法ととがめて損害賠償を請求することができると判断するに足りる外形的事情を被害者において認識する意味であり、右因果関係の認識は、一般人において加害行為に起因する損害であると理解することができる程度の事実の認識で足りるというべきである。

そうすると、本件でも、脊髄腫瘍との診断を受けた、あるいは腫瘍の摘出手術が終わった昭和六〇年一月三〇日ころには、原告らは違法性・因果関係を含め本件損害を知ったとみるのが相当である。

原告ら代理人は、原告らが本件損害を知ったのは、同代理人が原告らから相談を受け、証拠保全の手続をとった平成二年九月から一一月末ころにかけてである旨主張する。確かに、前認定のとおり、原告らは、依頼を引き受けてくれる弁護士を見つけ証拠保全手続を経た後に本件の頸髄腫瘍の種別が硬膜内髄外腫瘍の神経鞘腫であることを知ったものであるが、原告良明自身は田岡病院入院中に頸髄部に腫瘍があることを知り、また、原告らは被告病院との間で二回にわたって責任問題につき話合いの場をもち、その席上慰謝料や医療費等の支払を要求していること、昭和六〇年の手術の際には脊髄組織に癒着していた大きめの腫瘍がほぼきれいに摘出されたこと、さらに、昭和五〇年当時の髄内腫瘍の手術成績(乙四一、五〇、五一、五四等)をみると、その五割以上が死亡との報告があり、腫瘍の完全摘出が困難で予後が芳しくないものも多いが、その一方で、完治・改善が七割以上あるいは軽快四割以上との報告例もあるなど、手術による回復が全く期待できないというわけでもないことなどを併せ考慮すると、一般人においては、遅くとも、腫瘍の摘出手術が行われたころから二回目の話合いの場をもった昭和六一年一二月二二日ころまでの間に、一〇年以上も前の昭和五〇年ころには腫瘍も小さいので全部摘出することも可能であり、かつ、腫瘍が摘出されたならば完治は無理としても軽快、少なくとも四肢の完全麻痺は免れ得たとの認識を得られたはずである。

以上によれば、原告らは、腫瘍の摘出手術が終わった昭和六〇年一月三〇日ころには、あるいは遅くとも、二回目の話合いの場をもった昭和六一年一二月二二日ころまでには、違法性・因果関係を含め本件損害を了知したと解するのが相当である。してみると、原告らが訴訟を提起した平成三年一月二三日は、既に原告らが本件損害を了知した時点より三年を経過した後であって、原告らの不法行為に基づく損害賠償請求権は時効によって消滅したというほかはない。

三  争点一(被告の責任原因)について

既に検討したところ(消滅時効)によれば、被告の責任原因として問題となり得るのは、昭和五七年受診当時の診療契約上の債務不履行の有無ということになる。

そして、原告らは、昭和五七年受診当時、他の疾患の可能性を疑い診断の見直しをするためにミエログラフィー等の検査を行うべき義務があったのに、被告病院の医師らはこれを怠った旨主張するので、以下この点につき判断する。

1  証拠(甲二七、乙一ないし四、七二ないし七四、七八、八〇、八一、証人福田医師、同野島医師、同岩城医師)及び争いのない事実によれば、次の事実が認められる。

(一) 原告良明の昭和五〇年当時の第二内科外来・入院、整形外科外来及び退院後の第二外科外来に際しての原告良明の症状(訴え)によると、運動障害に関しては、昭和四七年(一七歳)ころよりスリッパが脱げ易くなり、昭和四九年ころより歩行異常を人から指摘され、右握力の低下に気づき、昭和五〇年一月ころから一〇月ころには、筋萎縮、筋力低下が右足・右手の末梢から中枢に向かって進み、それらが左手にも及んできており、また、感覚異常に関しては、昭和五〇年九月ころより左手にしびれ感を覚え、入院中は、左上肢を中心に疼痛としびれ感を訴えていた。なお、原告良明の訴えた疼痛は、鎮痛剤の注射についてはもちろん、内服薬の服用をも必要としない程度のものであった。

同じく昭和五〇年当時の診察所見によると、右手掌、右上肢、右肩帯及び右下肢に筋萎縮が認められ、筋力低下に関しては、右上下肢に強く、左上肢にも軽度の低下があった。また、両側の下腿及び左上肢に筋線維束性攣縮が認められた。さらに、表在反射としては、両側の腹壁反射の低下がみられ、深部反射としては、下顎反射は正常(ただし、昭和五〇年一一月一七日ころから明らかな亢進を示すようになる。)、上腕二頭筋反射は左右とも正常、上腕三頭筋反射は右が著明亢進で左が亢進、とう骨反射は左右とも正常、膝蓋腱反射・アキレス腱反射はそれぞれ左右とも著明亢進を示し、病的反射としては、バビンスキー反射・オッペンハイマー反射・ワルテンベルグ反射はそれぞれ左右とも陽性を示し、クローヌスについては、足クローヌスは左右とも陽性、膝クローヌスは右が陽性を示した。表在感覚のうち、触覚・温度覚については、異常を認めなかったが、痛覚については、右下肢の一部に軽度の低下を疑わせる所見がみられる。深部感覚には異常を認めなかったが、振動覚については、両側に軽度の低下を疑わせる所見がみられる。頸椎に運動制限はなく、また、レルミット徴候は陰性で可動痛もなく、脊椎症状は認められない。

同じく昭和五〇年当時の検査所見によると、脳脊髄液検査の結果は、クエッケンステット徴候・キサントクロミー・自然凝固がいずれも陰性、蛋白含量が正常上界ないし軽度増加(一デシリットル当たり41.4ミリグラム)、ノンネ・アペルト反応が軽度白濁を示し、頸椎エックス線写真検査では、四方向撮影を行ったが、異常所見はみられない。筋電図では、神経原性変化(神経に原因のある筋肉病変を示唆する変化)が、筋生検では、原因不明の軽度の筋萎縮が認められる。

(二) 原告良明らは、昭和五四年九月、肢体不自由者国民年金・福祉年金受給用診断書の発行を求めて第二内科に来院し、前担当医の福田医師は、原告らの希望に沿い、通常どおりの問診と診察を行い、所定の用紙に問診事項及び診察所見を記載した。その際の診察所見によると、上下肢は左右とも痙直性の運動麻痺が亢進、バビンスキー反射は左右とも陽性、その他の病的反射もほぼ全て陽性を示し、筋力については、肩は左がほぼ正常で右が著減、肘は左がやや減弱で右が著減、手は左がやや減弱で右が消失、股は左がやや減弱で右が著減、膝は左が半減で右が著減、足は左がやや減弱で右が消失を示している。膀胱直腸障害や球麻痺症状の有無については、右診断書の記載からは明らかでない。

(三) 原告良明らは、昭和五七年七月一日、リハビリテーションを希望して第二内科外来を受診したが、その時の症状(訴え)は、昭和五四年ころから左手・左上肢にも筋力低下が起こり、知覚障害・発語障害・嚥下障害はなく(ただし、冷感を訴えている。)、便通は一日一回で、便性状は正常であるというものである。

なお、原告側は、原告良明には昭和五五年ころから尿閉が現れ、昭和五七年当時は既にALSには原則としてみられない膀胱直腸障害が生じていた旨主張する。確かに、昭和六〇年の整形外科入院カルテ(乙五)には、原告良明本人の訴えとして、「昭和五五年くらいから、尿閉(たまっているけれども導尿しないと出ない)が年二回程度あったが、昭和五八年後半より回数が多くなった(半年に七、八回)」旨の記載やこれにそう原告らの供述・陳述及び膀胱直腸障害はいったんその症状が現れても脊髄等の状態によって多少変動し持続するものではなく昭和五七年の診察当時はたまたまその症状がなかったのかも知れない旨の鑑定証人阿部弘の証言があるものの、同年七月一日の第二内科外来カルテ(乙四)及び国立療養所徳島病院外来診療カルテ(甲二七)には、その旨の記載が全くないばかりか、直腸障害については、右第二内科外来カルテに「便通は一日一回で、便性状は正常」と記載されている上、膀胱障害については、来院時、一般患者と同様に尿検査が行われ、尿外観は黄色透明で蛋白、潜血もなかったこと、問診あるいは診察に当たる医師は、来院時の症状についてはもちろんのこと、来院するまでにどのような症状があったかも確認するのが一般的であることに照らし、右整形外科入院カルテの記載等から直ちに前記膀胱直腸障害の事実を推認するのは困難というほかなく、原告らの主張をそのまま採用することはできない。

右来院時の神経学的所見によると、筋萎縮は四肢全体にみられたが、特に右上腕・前腕に著明であったこと、病的反射としては、バビンスキー反射が両側とも陽性、深部反射としては、上腕三頭筋反射・膝蓋腱反射・アキレス腱反射がそれぞれ両側とも亢進したことが認められる。なお、前記第二内科外来カルテの四肢の運動障害・知覚障害の欄には何ら記載がなく空白のままとなっている。

同じく検査所見によると、心電図・胸部レントゲン写真では、異常がなく、尿検査では、先のとおり、外観が清・黄色、蛋白・潜血反応は陰性を示している。

原告良明が昭和五七年七月七日受診した国立療養所徳島病院での神経学的所見によると、両足にしびれ感があり、深部知覚や位置覚が低下し、振動覚も僅かに低下していたことが認められる。

2  ところで、人の生命及び健康を管理すべき業務(医業)に従事する者は、その業務の性質に照らし、危険防止のために実験上必要とされる最善の注意義務を必要とされるのである(最高裁昭和三一年(オ)第一〇六五号同三六年二月一六日第一小法廷判決・民集一五巻二号二四四頁)が、個々の事案において、債務不履行をもって問われる医師の注意義務の基準となるべきものは、診療当時のいわゆる臨床医学の実践における医療水準である(最高裁昭和五四年(オ)第一三八六号同五七年三月三〇日第三小法廷判決・裁判集民事一三五号五六三頁、最高裁昭和五七年(オ)第一一二七号同六三年一月一九日第三小法廷判決・裁判集民事一五三号一七頁)ことはいうまでもない。そして、具体的な臨床場面において、どの時点でどの程度までの検査をすることが必要か否かについては、疑われる病状の重大性、当該検査の有効性、危険性及び患者に与える侵襲、初診から現在に至るまでの患者の症状や診察・検査の所見、診療経過など諸般の事情を総合考慮して判断すべきである。そこで、争いのない事実及び前項で認定した事実関係に即して右の点に検討を加えることとする。

まず、証拠(甲七ないし一〇、一二、一四ないし一九、二二、二三、二六ないし三〇、三五ないし四〇、四七ないし五一、乙一ないし三、六、八ないし一一、二〇、二四、三〇、三四、三八、四〇、四一、四四、四六、五〇、五一、五四、五七、六三、六四、六五、六七ないし七〇、七二、七四、七九ないし八一、八五、八六、八九、九五、証人福田医師、同岩城医師、鑑定証人阿部弘等)及び争いのない事実(既に認定した本件事実関係を含む。)によれば、以下の事実を認めることができる。

(一) ALSは、発病が緩徐で経過が進行性のものであるが、有効な根治療法がなく、また、早ければ一、二年で死亡に至ることもある。

一方、頸髄腫瘍の場合、神経障害による知覚・運動障害等の症状は、通常不可逆的に進行し、最終的には腫瘍により障害された神経レベル以下の完全な知覚喪失、麻痺に至り、一般に、治療に当たる医師としては、できる限り早期に頸髄腫瘍の有無についての鑑別診断をなし、必要な手術を行うことが望ましい。

(二) ミエログラフィー検査は、脊髄のくも膜下腔に造影剤を注入してエックス線透視又は写真撮影を行う脊髄腔の造影法であり、MRI検査(磁気共鳴画像検査)が普及していなかった本件当時においては、脊髄腫瘍の有無、正確な部位、硬膜内・外や髄内・外の鑑別等を知るのに最も有力な補助診断法であったが、造影剤により頭痛、嘔吐等の副作用を起こすことがあるなど、患者の身体への侵襲が大きい検査である。

マイオジールは、ヨード系・油性造影剤で、昭和三〇年ころから一般に使用されるようになった。使用例が増え使用期間が長くなるにつれ、注入初期において、一過性の障害(主として、頭痛、発熱、悪心、嘔吐、項頸部強直、痙攣等)が生じることが比較的多くあるが、油性の薬剤であるため体内に吸収されることは遅く、長期間吸収されないで脊髄腔、頭蓋腔内に滞留する例があり、その結果、まれに癒着性くも膜炎や骨髄炎を生じて重篤な神経障害を生じ、大量に使用した場合には肉芽腫を形成するなどの症例報告がある。そのため、当時は、マイオジールによるミエログラフィー検査が、脊髄腫瘍の高位診断、髄内・外の区別等のためばかりではなく、類似疾患の鑑別にとっても極めて有効な診断法であることは認識されていたものの、一方で、同検査は手術を前提としてのみ使用すべきであって診断のために使用すべきではないとの主張も提唱されるようになった。

頸髄腫瘍例におけるミエログラフィー検査の場合は、他の部位のミエログラフィー検査に比べて多量の造影剤を必要とし、また、造影剤が頭蓋腔内に侵入する危険度が増すため、他部位のミエログラフィー検査に比べて副作用を起こす確率が高くなる。

マイオジールのような油性造影剤による造影では、その高粘稠性のために詳細な観察が不十分な場合がある。その結果、偽陽性例や偽陰性例の出現、頻回のミエログラフィー検査で初めて発見される例、手術所見との一致がそれほど高くないこと(六〇パーセントないし八〇パーセント)など、その限界に関する報告がなされている。また、上部頸髄腫瘍では、閉塞像が判然とせず、その読影が困難との報告もある。

マイオジールは、前記副作用等のために昭和五六ころに販売中止となり、それ以降は水溶性の造影剤が用いられた。水溶性造影剤は完全に吸収されるため(可吸収性)、マイオジールの場合に比べて、先に指摘したような副作用等身体への侵襲度は極めて小さい(水溶性造影剤といえども、例えば、頭蓋内に造影剤が入ってしまえば頭痛、嘔吐等の症状が現れるし、穿刺に伴う副作用も起こり得るが、それはむしろ手技の習熟度によるものといえる。)ほか、欠損像が少なく造影能が良い上、脊髄や神経根の微細な病変を造影できる。

(三) 脳疾患をはじめ主として内臓器の検索に用いられていたCTは、昭和五〇年代初期ころからは、整形外科領域の検索にも広く行われるようになっていたが、脊髄病変の読影は困難といわれていた。そこで、一般のCTでは読影されない脊髄腫瘍や動静脈奇形に対し、昭和五四年ころには、静脈注射によって造影剤を静脈内に注入する脊髄CTの試みが報告されるようになり、腫瘍により腫大した脊髄や椎間板突出及び腫瘍等による脊髄の圧迫などの病変を推定することが可能となった。

(四)(1) 昭和五〇年当時、主治医の福田医師(同年三月に医学部を卒業)は、第二内科外来・入院時の症状・診察所見から、運動神経系が選択的に障害されるALSを最も疑った。なお、同医師は、表在感覚のうち、痛覚については、右下肢の一部に軽度の低下を疑わせる所見がみられたが、その程度が軽度であること、同時に障害されることの多い温度覚に異常が認められなかったことなどから、有意な所見と判定せず、また、振動覚については、両側下肢に軽度低下を認めたが、両側下肢には著明な筋線維束性攣縮が共存したため、有意な所見と考えなかった。ただし、球麻痺症状を欠如し、若年発症であることなどから、筋萎縮をきたす諸疾患との鑑別が必要とされたため、髄液検査・筋電図、筋生検等の特殊検査も含めて検査計画が立てられ、また、鑑別すべき疾患として、頸椎症、頸髄部腫瘍、多発性筋炎、神経性進行性筋萎縮症、痙性脊髄麻痺等が考慮された。

頸椎のエックス線写真の結果から頸椎症は否定され、また、筋生検によっても明らかな炎症が認められなかったことから多発性神経炎も否定されるなどして、結局、鑑別を要する疾患としては頸髄腫瘍のみが残った。

(2) 筋電図所見については、一般に、頸髄腫瘍では、発生高位に一致する髄節の支配領域において神経原性の筋電図変化を認めることが多く、それより下位での多髄節に及ぶ支配領域に神経原性の変化を認めることはないといわれているところ、原告良明の場合、二頭腕筋、腕とう骨筋、母指球筋のいずれにも神経原性の筋電図異常が認められ、病変が多髄節に及んでいることを示唆する所見となっている。筋生検の結果は、原因不明の軽度筋萎縮というもので、ALSと脊髄腫瘍のいずれにも親和する内容であった。

(3) 第二内科に入院していた昭和五〇年当時、原告良明には一〇月二八日ころから左上肢に神経痛様の痛みとしびれが出現し、以後入院期間中持続したが、根性疼痛のような著名な痛みではなく、病変の軽い左側に現れていたため、福田医師は、ALSの筋萎縮が出現する初期の随伴症状と考えた。

(4) ALSにおける筋萎縮については、下肢から上肢へと進行する例や、上肢近位部より始まる例もあるとされるが、一般的には、手、前腕にその症状が現れる例が最も多く、次に上腕、上肢帯の順といわれており、上肢の運動障害をもって初発とし、それから一、二年遅れて下肢にも運動障害が発現するというのが定型的な病型であるとの講釈もみられる。また、ALSの場合、筋萎縮等の症状の現れ方は左右の上肢又は下肢といった両側性を有するのに対し、頸髄腫瘍の場合には、片側だけに現れることが多い。さらに、通常、ALSは発病後二、三年で死亡する例が多く、五年以上の生存率は比較的少ない(約一〇パーセントという報告例もある。なお、この点は個人差があり、一年くらいで死亡する例から一〇年以上生存する例、二八年の長期生存例も報告されている。)。発症年齢の点では、一〇代での発病はごく少数にすぎない。原告良明の場合には、一七、八歳ころより初発症状が現れ、筋萎縮、筋力低下が右下肢から生じて右上肢にも及び、さらにそれが左上肢にも及んでいるなど、病型、症状経過、生存期間、初発年齢の点でALSにおける通例とは異なるものであった。なお、第二内科の教授回診の際には、「発症年齢が若いし、頸椎症との鑑別が問題である」などの指摘がなされている。

(5) 福田医師は、昭和五〇年当時、計画された諸検査等を終え、それまでの診察・検査結果(その概要は前示のとおり)を踏まえ、原告良明の症状をALSと診断した。すなわち、深部反射亢進、病的反射出現、下顎反射亢進といった上位運動ニューロン徴候(錐体路徴候)の存在、筋萎縮、筋線維束性攣縮、筋力低下といった下位運動ニューロン徴候(前角徴候)の存在を認めたこと、有意な他覚的知覚障害を認めなかったこと、膀胱直腸障害、頸椎症状がなかったこと、頸椎エックス線写真(四方向)に何ら異常がみられなかったこと、脳脊髄液検査において、クエッケンステット徴候及びキサントクロミーとも陰性で、蛋白含量は正常上界ないし軽度増加を示すのみであり、また、脳脊髄液には自然凝固、無流出等の所見が認められなかったこと、整形外科外来を二度受診したが、整形外科的疾患を示唆されなかったことなどが右診断の根拠とされた。なお、福田医師は、当初、原告良明におけるALSの病型を偽多発神経炎型と判断し、第二内科入院カルテ(乙二)の病名欄にその旨記載したが、再考の上、偽多発神経炎症(病型の中では生存期間が最も短い。)から片麻痺型に訂正している。

もっとも、右診断は当時の諸検査等に照らしてALSの疑いが最も高いという趣旨であって、脊髄腫瘍の可能性を否定するものではなく、確定診断をつけるためには更に症状等の経過を観察する必要があった。

(五) 原告良明は、退院後の昭和五〇年一二月一二日に被告病院を外来受診して診察を受け(その内容は、前示昭和五〇年当時の診察等の所見に含まれている。)、また、同月二六日には同原告の家族のみが来院して投薬がなされたが、その後は、昭和五四年九月二七日に肢体不自由者国民年金・福祉年金受給用診断書の交付を希望して被告病院を受診し、さらにまた、同年一〇月一一日にはリハビリテーションを希望して来院したのみであった。

(六) 原告良明は、昭和五七年七月一日、四肢筋力の低下を訴え、リハビリテーションを希望して第二内科の外来を新患として受診した(なお、被告病院では、診療を効率的に進めるために問診と診察を分化させ、まず、問診医が問診を行って患者の病歴を問い、その後必要な検査を済ませた上、診察医が診察するという体制をとっていた。)。原告良明は、車椅子に座ったまま診察室を訪れ、車椅子より自力で起立したり歩行することは不可能であった。診察に当たった岩城医師は、前示の外来時における原告良明の症状、診察等の所見がALSに一致していたため脊髄腫瘍を疑ってみることをしなかった。すなわち、岩城医師は、上位運動ニューロンの障害を示す深部反射の両側亢進、バビンスキー反射の両側陽性、及び、下位運動ニューロンの障害を示す筋萎縮、筋力低下、筋線維束性攣縮がみられたこと、根性疼痛、知覚障害、膀胱直腸障害といった頸髄腫瘍等の脊髄圧迫性疾患を疑うべき症状を原告良明が訴えなかったこと、初診時より既に七年を経過していたが、若年発症のALSでは病状の進行が高齢発症のALSに比べて緩徐なことが多く、診察当時、球麻痺症状、呼吸筋麻痺症状がいまだに生じていなかったことから、若年性のALSと考えたものである(なお、岩城医師は、これまでに筋萎縮性側索硬化症や良性の脊髄腫瘍の患者を診察した経験がなかった。)。岩城医師は、原告らにリハビリテーションに適切な医療施設として国立療養所徳島病院への受診を勧め、原告らの同意を得たため、同病院に電話連絡して原告良明の診察を依頼するとともに、同病院の担当医あての紹介状を原告らに交付した。紹介先の右徳島病院(米田賢治医師)より岩城医師あてに、「右上下肢に拘縮が認められるので、今後週三回外来にてリハビリテーションを予定する。入院でのリハビリを勧めたが患者の希望で外来通院となった。」旨が記載された紹介状の返事が届いた。原告良明は、昭和五七年七月七日、国立療養所徳島病院を受診し、以降同年八月三日までの二七日間に二回の診察と一一回のリハビリテーション(運動療法)を受けたが、それ以後は同病院に来院しなかった。なお、右病院での検査によって位置覚の低下等の知覚異常が診られたことから、来院を続けていれば、引き続き精密な検査が実施されていたものと推察される。

(七) 原告良明は、昭和五九年始めころ、尿意及び便意が全くなくなり、臀部、肛門周囲、両膝周辺、両足関節周辺に知覚脱失を生じ、また、寝たきりのため床擦れが出始め、同年五月末には気胸を起こしたことから、田岡病院(整形外科)に入院した。原告良明は、入院後、レントゲン検査を受けるなどして気胸と床擦れの治療に専念していたが、昭和五九年の七月か八月ころ、同病院の担当医から、知覚障害がみられるなどALSと症状が違っており病名が相違している疑いがある旨の指摘を受け、その後、正確な病名を特定する(鑑別診断)ためにミエログラフィー検査の受検を勧められたが、他の病気であっても類似疾患には違いがなく、また、もしALSと診断されたときには苦しみに追い打ちをかけるなどと考えてしばらく返事を躊躇していたところ、再び同検査を勧められたので受検を承諾し、同年一二月一八日ころ、ミエログラフィー検査が実施され、頸髄部に腫瘍が発見された。原告良明は、昭和六〇年一月一六日、田岡病院から被告病院(整形外科)に転院し、同月二八日、部位等を確定するためにミエログラフィー検査が実施され脊髄腫瘍との診断を受け、同月三〇日に腫瘍の摘出手術が行われ、腫瘍はほぼ全部摘出されたが、原告良明には、肩から下の四肢完全麻痺、膀胱直腸障害及び呼吸障害が残った。

3 以上の認定事実を踏まえ、以下昭和五七年当時における被告病院の債務不履行の有無を検討するに

①  昭和五〇年の受診当時、原告良明については、上肢に神経痛様の疼痛、下肢に痛覚障害、振動覚障害等のALSでは通常出現しにくい症状が診られ、また、最終的にはALSと診断されたものの、それは最もその可能性が高いというものにすぎず、脊髄腫瘍の疑いが完全に否定されたものではないこと、さらには、もともとALSと脊髄腫瘍の鑑別は非常に困難な部類に属するところ、有力な決め手となるような症状・所見はいずれについても見当たらなかったにもかかわらず、ALSと脊髄腫瘍の鑑別診断にとって当時最も有用なミエログラフィー検査は実施されていないこと、しかも、これらの事情は諸カルテの記載に目を通せば一目瞭然であること

②  原告良明は昭和五〇年に退院した後、昭和五七年の受診までの間に数回しか来院していないところ、同年に診察を担当した医師においても、保存的な療法たるリハビリテーションのためばかりでなく、症状の経過を観察し当初の診断に適合しない場合には再度精密な検査を速やかに実施する機会を確保するためにも、経過観察の重要性について十分に承知していたはずであり、原告良明の場合には退限後の経過が定期的に観察されていないといった事態の深刻さを十分理解できること

③  原告良明の場合には、ALSの中でも、病型、症状経過、生存期間、初発年齢の点で通例とは大きく異なるものであり、その意味でいわば例外中の例外を想定していることに照らし、いったんつけた診断が正確であったか否かの検証・検索が通常の場合以上に要求されるというべきであること

④  ミエログラフィー検査はその実施に伴う副作用等の危険性に徴し、術前の補助的な診断方法とみるべく、脊髄腫瘍や神経根の症状が明白であって、手術を要すると考えられる場合などにその適応を限るのが望ましいことはいうまでもないが、本件は、早期発見・治療が急務であって、治療が遅れた場合には不可逆的な機能障害が残る脊髄腫瘍と、有効な根治療法がなく、昭和五七年当時においても発症から既に九年ないし一〇年が経過しており、若年発症例は生存期間が比較的長いとはいえ、それとても更なる延命の保証など全くないALSとの鑑別の場面であり、脊髄腫瘍が濃厚でその部位等を確定するために術前にミエログラフィー検査を実施する場合に比し、その必要性、適応の度合いは勝るとも劣らないと解されること

⑤  右①ないし④に加え、昭和五七年当時はALSと診断されてから既に七年が経過していたのに、その症状としてよく診られる球麻痺障害(発語・嚥下・呼吸機能障害)については、昭和五〇年当時の第二内科入院カルテ(乙二)に「何となく言葉がしゃべりにくくなってきた」という原告良明の訴えが記載されているほかはその徴候さえうかがえないことをも考慮に入れると、昭和五七年当時の担当医の対応としては、本件を例外事例であるALSの長期生存例と即断するのではなく、再度慎重な注意を払い、他の疾患、特に脊髄腫瘍を疑って検索を進めるべきであり、例えば、同年当時においても型通りの診察を終えた上で経過観察による療養を指示・指導し、球麻痺障害あるいは膀胱直腸障害等の出現を待つというのは、初診から既に七年が経過していること、右障害が明らかに生じている場合には末期に至っている場合が多く手遅れのおそれがあることにかんがみ、許されないというべきであり、さらにまた、同年ころまでには、既に静脈注射によって造影剤を静脈内に注射する脊髄CTが普及しており、ミエログラフィー検査においてもマイオジールに代わるものとして安全で副作用の少ない水溶性造影剤が使用されていたことに照らし、右検索は決して不可能を強いるものではなくむしろ十分に可能であったとはいえ(なお、ミエログラフィー検査の身体への侵襲の度合いについては、手技の習熟度に左右される面があることも無視できないが、医師は患者に現代の医療水準による適切な診療を施さなければならないという職業上の義務を遂行できるよう研鑚を怠ってはならず、また、その地方・地域の最高の医療水準が期待されている被告病院においてはなおさらである。)、担当医としては、再度精密検査を行い、その一環として脊髄CT、さらには水溶性造影剤によるミエログラフィー検査についても、原告良明に対しその必要性、危険性を説明し同人の同意を得た上で実施していくべきであったと解される。

以上のとおり、昭和五七年に原告良明の診察等を担当した医師らは、被告病院の履行補助者として、本件診療契約上、原告良明に対し、適切な鑑別診断をつけるための相当な検査、特にミエログラフィー検査を行うべき義務を負っていたというべきであり、右検査実施義務を怠った以上、被告には債務不履行があったと認められる。

四  争点二(因果関係の有無)について

仮に、被告病院が昭和五七年当時適切な鑑別診断をつけるための相当な検査、特にミエログラフィー検査を実施した場合、それによって原告良明の四肢麻痺による労働能力の完全喪失等の結果を回避できたかについて検討する。

1  まず、本件事実関係(認定済みのもの。以下同様)によると、昭和六〇年一月の腫瘍摘出手術によって摘出された腫瘍はかなり大きく、また、昭和五七年の受診当時、原告良明は車椅子から自力で起立したり歩行したりすることが困難となっており、かかる歩行困難な状態は昭和五六年夏ころから現れ始めたのであるから、昭和五七年受診当時においても腫瘍はある程度大きかったものと推察され、したがって、ミエログラフィー検査を行えば、頸髄腫瘍を鑑別可能な程度の造影通過障害の影像を読影できたと推認される(なお、脊髄CTを行っても、何らかの異常陰影が確認されたものと考えられる。)。

次いで、ミエログラフィー検査によって頸髄腫瘍の鑑別診断がついた場合には、当該病状の重大性からして、直ちに手術が行われたものと推認される。そして、本件事実関係によると、前記六〇年の手術の際にもかなり大きな腫瘍がほぼ全部摘出されたこと、昭和五七年当時においても既に手術用の器具としてエアトームや顕微鏡が普及していた(証人野島医師)ことなどに照らせば、昭和五七年の時点でも頸髄部の腫瘍をほぼ全部摘出できたものと推認し得る。

2  次に、昭和五七年当時、手術を行い、腫瘍を全部摘出できたとして、原告良明の四肢麻痺ないしは労働能力の完全喪失を避け得たかどうかが問題となる。

一般に、硬膜内髄外腫瘍の予後は良好で手術によって着実に回復を期待できるものの(甲一一、一三、二四、二五、乙九四、鑑定証人阿部弘等)、本件事実関係によれば、昭和五六年夏ころより既に四肢不全の状態が生じている上、昭和六〇年の手術によって腫瘍がほぼ全部摘出されたにもかかわらず四肢の完全麻痺等の障害が残存したこと、昭和五四年の時点で労働能力喪失率一〇〇パーセントに相当する身体障害者第二種三級の認定を受けていることに徴すると、昭和五七年ころには既に神経機能が不可逆的な損傷を受けていた可能性も否定できず、また、昭和六〇年の手術時と比べて労働能力喪失の点からみればさほど変化はないとも考えられる。他方、完全麻痺であっても改善を期待できる旨の文献上の記載(甲九)があり、昭和五七年当時原告良明に膀胱直腸障害が生じていたとまでは認定できないこと前示のとおりであるが、本件全証拠に照らしてみても、結局のところ、原告良明の四肢麻痺ないしは労働能力の完全喪失を避け得たかどうかについては、不明のままであるといわざるを得ない。

そうすると、被告病院の前記検査実施義務違反と原告良明の労働能力喪失等の結果との間に、相当因果関係を認めることはできない。

もっとも、昭和五七年に前記手術が施行されていれば、昭和六〇年の手術による予後と比較し、その程度は別として、症状は改善されていたことも推認され、また、その関係上、医療費や入院雑費及び介護費にも差が出ることも容易に予測されるところであるが、その額を的確に認定することはできない。右事情は後記慰謝料額の算定に当たり考慮することとする。

五  争点三(損害)について

1  前説示のとおり、相当因果関係を認めることはできないとしても、被告病院の前記検査実施義務違反によって、原告良明は、当時の医療水準から一般の患者が受けるであろう適切な診療を受ける機会を逸してしまったものである。原告良明は、被告病院に寄せた信頼を裏切られ、適切な診療を受ける機会を失ったことによって精神的苦痛を受け、精神的損害を被ったことが認められる。なお、原告義二及び同孝子は、診療契約上の当事者ではないのであるから、被告病院に対し、固有の慰謝料を請求することはできないというほかない。

慰謝料額については、原告良明は、青春を謳歌するはずの時期に不幸にも根治療法のないALSとの診断がつけられ、昭和五四年にたまたまその病名を知るに及び、以後本当の病名が脊髄腫瘍と判明するまでの約五年間にわたって死の恐怖にさらされてきたこと、前四2掲記の事情、その他本件口頭弁論に現れた一切の事情を考慮すると、被告病院の債務不履行による原告良明に対する慰謝料としては金二七〇〇万円をもって相当と認める。

2  原告らがこの慰謝料請求権を実現するためには、本件訴訟を提起してこれを追行するほかなかったが、そのために要した弁護士報酬相当額も被告病院の債務不履行と相当因果関係にある損害ということができる。

そして、本件訴訟追行の難易、そのための時間や労力、原告良明の請求認容額、その他諸般の事情を考えると、本件弁護士費用は金三〇〇万円と認めるのが相当である。

3  ところで、原告らは、本件の請求に係る損害金につき、原告良明が被告病院を退院した日である昭和五〇年一一月二八日から遅延損害金の支払を求めているが、前記債務不履行に基づく慰謝料請求権は、期限の定めのない債権であり、民法四一二条三項により催告によって遅滞に陥るものと解されるところ、本件事実関係によれば、原告らは、被告病院と二回目の話合いの場をもった昭和六一年一二月二二日に慰謝料の支払を要求していることから、被告の右慰謝料支払義務はその翌日から遅滞に陥ったというべきである。

また、債務不履行に起因する弁護士費用についても、右同様、催告によって遅滞に陥るとみるべきところ、原告らが本件提訴以前に被告に対しその支払を求めたと認めるに足りる証拠はないから、訴状送達の日の翌日である平成三年二月五日から遅滞となる。

4  原告側が債務不履行に基づいて損害賠償を請求する場合に、もし原告側にも過失があるときには、職権でその点を斟酌して賠償額(ただし、弁護士費用分を除く。)の減額をしなければならない(民法四一八条)。してみると、昭和五〇年の退院以後、保存的療法として経過観察を続ける必要があったのに原告良明はほとんど通院しなかったことから、この点を原告側の過失とみることも可能ではあるが(もっとも、原告良明が現に被告病院には通院せず指圧等に通い始めたことなどに照らせば、退院の際、第二内科の原告らに対する、経過観察の必要性についての説明は不十分であったことも否めないため、原告側の過失を過大視するのは相当でない。)、昭和五〇年及び同五四年当時、仮に被告病院に債務不履行が存在したとしても、消滅時効が成立することによって責任原因としては考慮されないこととの均衡上、原告側の過失についても不問に付すべきである。

第四  結論

以上からすれば、原告良明の被告に対する請求は、診療契約上の債務不履行に基づく損害賠償として、金三〇〇〇万円及び弁護士費用を除く金二七〇〇万円に対しては昭和六一年一二月二三日から、弁護士費用金三〇〇万円に対しては平成三年二月五日から各支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度において理由があるからこれを認容し、原告良明のその余の請求は理由がないからこれを棄却し、原告義二及び同孝子の被告に対する請求は理由がないからいずれも棄却することとして、主文のとおり判決する。

なお、被告は仮執行免脱宣言の申立てをするが、本件事案にかんがみ相当でないので、これを付さないこととする。

(裁判長裁判官松本久 裁判官大西嘉彦 裁判官本間敏広)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例